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織田信秀 (侍従) : ミニ英和和英辞書
織田信秀 (侍従)[おだ のぶひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おり]
 【名詞】 1. weave 2. weaving 3. woven item
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [まこと, しん]
  1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion 
: [さむらい]
 【名詞】 1. Samurai 2. warrior 
侍従 : [じじゅう]
 【名詞】 1. chamberlain 

織田信秀 (侍従) : ウィキペディア日本語版
織田信秀 (侍従)[おだ のぶひで]

織田 信秀(おだ のぶひで)は、安土桃山時代武将織田信長の六男。祖父である備後守信秀と同名である。
== 生涯 ==
元亀2年(1571年)頃の誕生という。母は所領・姻戚関係などから稲葉氏息女ではないかと見られているが、不明である。幼名をセットで名付けられたと言われる信高(幼名小洞)の母を、通常興雲院とするため、興雲院との説もある。父信長より美濃揖斐地方に所領を与えられた。天正10年(1582年)には良通が仏照寺に禁制を出しており、所領は信長ではなく、当時同地を所領として与えられていた稲葉良通から信秀の母に分与されたという説もある。同年6月の本能寺の変の際は美濃の仏照寺に落ちて難を避けた。変後の6月20日には仏照寺に大洞の名で文書を発給している。同月羽柴秀吉より揖斐の所領を安堵される。
清州会議後、所領を近江国栗太郡に移され、山田庄他の村を給地として与えられている。所領石高は不明ながら、文禄の役での軍役動員を根拠(後述)として、2万から5万石級の所領を得ていた可能性が指摘されている。同年12月28日、山田庄内の寺内屋敷を本願寺に寄進した。天正11年(1583年)頃元服し、仮名を三吉郎、を信秀と名乗る。
秀吉が権力を掌握すると、稲葉良通の口添えによって秀吉の家臣となる。臣従後は甥で織田宗家当主の織田秀信や、外戚である六角義郷稲葉貞通(曽根侍従)らとともに取り立てられた。天正13年(1585年)7月、義郷らとともに羽柴姓を与えられ、従四位下侍従に任じられる。この頃、正室玉雲院稲葉氏(稲葉貞通三女)が輿入れしている。また、異母弟織田信高の秀吉への臣従を仲介した。『稲葉家譜』によると、玉雲院の母は信長の妹であり、玉雲院は信秀の従姉妹にあたる。同年、秀吉から信秀の母に対し、近江国草津付近の知行方目録朱印状が与えられており、信秀の昇進に伴い母にも加増があったことが推測される。
天正14年(1586年)2月、侍従任官の礼物として白銀10枚を朝廷に献上した。4月の後陽成天皇聚楽第行幸に際しては、秀吉の行列の後駆として他の豊臣一族、織田一族と共に秀吉の牛車の後ろに従い、国持大名22人とともに秀吉に忠誠を約する起請文を提出した。この時の序列は、侍従の官位を持つ大名の中で13番目であり、蒲生氏郷細川忠興に次ぎ、叔父織田長益の上位にあった。署名は「三吉侍従豊臣信秀」としており、羽柴姓に続いて豊臣姓をも与えられている。歌会においては和歌を詠んでいる。同年、信長の姉妹の子で従兄弟にあたるクマノスケ(織田熊之丞か)なる者と共に大坂の修道院で受洗キリスト教に入信した。入信は天正15年(1587年)ともいう。洗礼名はペトロ。生母は受洗を怒ったものの、これを諭し、逆にインドやヨーロッパの文物を見聞するよう勧め、さらには司祭たちに母に教えを説くよう依頼し、キリスト教の理解者にしている(ルイス・フロイス日本史』)。
天正15年(1587年)、九州征伐に兵を率いて従軍した。このときは禁教令以前であったため、象牙のロザリオをつけて出陣している。文禄の役にも「東二之丸御後備衆」の一人として300人〔豊臣政権の軍役規定において1万石の大名の軍役は兵125人。〕を率いて出陣、同27人の筆頭(後、間島彦太郎が御前備衆に移ったため26人)として(「松浦古事記」、次席は長束正家肥前名護屋城に駐屯している。陣所は九鬼守隆陣所の南に位置した。文禄3年(1594年)5月23日、名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際には、徳川家康、前田利家、織田秀信ら同問祇候之衆6人に次いで、次之間にて木下勝俊以下9人と共に伺候した〔この席に伺候している織田一族は、信秀の他には宗家当主の秀信だけであり、織田一族内で序列第2位とされていたことがうかがえる。〕。
文禄年間、京都で癩病のために病死したとされるが、慶長2年(1597年)2月4日付で山田庄宛の9カ条の掟書きが出されており、同年までは所領の支配が確認される。
信秀の晩年については『織田家雑録』によれば、晩年は剃髪し、浦坊〔洗礼名を音訳としたものとされるが、ペトロの漢訳は「彼得」であり相当しない。没したとされる京都の宇治白川金色院の坊舎に浦坊があり、居住した坊舎の名前である可能性もある。〕と号したとする。死後は京都の大徳寺塔頭総見院に葬られた。
== 逸話 ==

*丹石流の開祖衣斐丹石に対して兵法伝授の起請文を出している。(年代不明、「衣斐文書」)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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